Fのブログ

世にありふれたフツーのブログのうちの一つ

おそようございます。

 

最近近所の小さい塾でアルバイトっぽいことをしています。主に中学生を相手しているのですが、やはりティーンネイジャーらしく素直(視野が狭いともいえる)面をひしひしと感じ、自分も他人から見ればこんな風だったのかなあと思う日々でございます。多分、ねじ曲がった性格が表に滲み出ていたのではないかと想像してはいますが。

 

 

そんな中で、試験本番に緊張してか点が取れないという方がいました。

まあよくある話かもしれないんですが、どう見ても振る舞いが緊張するタイプには見えなかったんですよね。

 

よくよく(他の人から)話を聞いてみると、どうやらご家庭の方がかなり細かく成績とかを気にして圧をかけるそうです。というか何度か送迎で保護者の方が来たのですが、悪気無さそうにプレッシャーをかけるような人間に見えました。

 

 

ここからお気持ち表明になるんですが、かなりの確率でこのように育った人間は、将来的に屈折したものを抱えた存在になってしまうのでは?と思います。当人が満足すれば問題ないとは思いますが、上記の人物に限れば成績が下がっており、そのことを気に病んでいたのでそう上手くはいかないように思えます。

 

おそらく人間にとって自分の養育者を否定することは(特に若い時代は)難しいことであり、何か他の要因にこじつけてしまい思考が固まるということが往々にしてあるのだと思います。

 

そうして思考に柔軟性を持てないまま何処かのタイミングで躓いてしまうと考えます。

 

そうして何が間違っていたのかについて追求をした際に、例えば対象を自分とすれば心を病み、政治とすればなんかTwitterとかでズレた政治の発言をし、社会とすれば反社会的な意見を支持する、などと社会にとっての厄介者のような存在になってしまうようにも思えます。

 

 

なんて一般論みたいに纏めましたが、正直その人のことが可哀想でしょうがなかったです。保護者の方が喋っているときのあの俯きがちの表情は、悲哀に満ちておりただただ悲しいものです。

 

少なくとも現時点では活発そうな一面を持っている人が将来躓いてしまう可能性が充分にある事実と、それを想像出来ても解決策が見いだせないという無力感は虚しさの他に何も感じられませんね。

 

何より、現在において所謂厄介者とみなされそうな人々も、かつては本当に普通な存在であり、様々な背景と何らかの契機により変わってしまったのではないかということも考えられ、なんとも言えず寂しいものです。

 

最近ガチャとかいう表現が流行っているらしいので、関連してこんなことを考えつつ労働してしまったのかもしれません。

 

ちなみに上記の方のご家庭は客観的に測れる要素においては恵まれているとみなされるものです。だからこそ、ガチャという表現に対して裕福さとかを指標に批判するのは的外れな気がしてならないのですがどうなんですかね。

 

今日はこの辺で。