Fのブログ

知らなくても良いことの一つ

解無しと考える甲斐無し

おそようございます。

 

薬を飲み始めてから15日目くらいになりました。薬が効いているのかそれなりに調子がよくなってきており、残す症状は考え方のみ、と考えたいものですがどうなんでしょうね。

 

その考え方の不安(≃悩み)に、生きる指針みたいなものが揺らいでしまったということがあります。というかこれが全てかもしれません。

 

指針のない生き方を全否定するわけでは全く無いですが(指針の無い生き方をするという指針をもつということも例外ではないため)、自分の場合それがあることによって何とか自分を肯定(正当化?)して過ごしてきたので、悩みの種となっています。

 

そんな中で、生きる指針など自分にはもう存在しないのではないか、と悲観的になっている時期が数日前においてはありました。理屈では存在していても心の底から納得できていないような感じで、結局今でもこうやって不安になっている次第です。

 

しかし、そんな風に指針など無いと考えることは間違っているのではないでしょうか。

 

指針を定める際に、過去の出来事やそれによって形成された性格等が境界条件のような

はたらきをしていると思います。

 

結果として、様々な条件を満足する考えを、つまりは解のようなものを導き出せればよいのでしょう。

 

話が少々逸れますが、二次元座標空間を最初に考えてみます。解無しを一つの答えとしないということ(前述の通り)を前提とします。あとイメージしやすいから直交座標系の方がいいかもしれませんね。

 

このような時、条件が一つであっても解がないということはありますし、単純な一次方程式であっても、条件が二つでは平行の場合に、三つ以上では容易に解が無い例を考えることが可能です。

 

そのような時、解を無理矢理見つけ出すためには、二つほど(もっと?)方法があると思います。

 

一つは、条件を見直すことだと思います。よく見てみれば解が存在する条件であることを見落としているかもしれません。

 

もう一つは、次元を増やすことだと思います。二次元座標空間では解が無くとも、条件に対して変数を(任意の数)増やしてみれば、勝手に二次元座標空間で解が無いと思い込んでいただけで、本来はより高次元の話であったということに気づくかもしれません。

 

結局何を思ったかというと、条件を見直すこと、つまりもう一度深く出来事や性格を見直してみることと、次元を増やすこと、つまり物事に対する視点を拡張することで、指針というものは必ずどこかに定まっているのではないかということです。

 

子どもがこういう悩みを(多分)持たないのは、条件が少なく、解の自由度(≃個数?)が無限大に多いからなんじゃないですかね。

 

逆に、様々な経験をすることで、(少なくとも)一つの答えを導き出すのに条件が複雑になってしまうのでしょうか。

 

そんなわけで、指針は必ず存在するということも前提にしてしまえる、すなわち指針が無いという解無し状態のことを考える意味は無いのではないでしょうか。

 

そんな考えでいないと、本当に気が滅入ってしまいそうなので、かなりポジティブに考えています。

 

実際解の存在について証明したわけではないですし、前提から厳密性を欠いていると言わざるを得ないですし。どこかに重大な欠陥があるかもしれないです。

 

今日はこのへんで。