Fのブログ

世にありふれたフツーのブログのうちの一つ

ワイダニット

おそようございます。

 

今日(05/01)は本当はもう少し楽しい内容を書くつもりだったのですが、なんともそうもいかない状態になったのでくそったれな内容です。

 

というのも、ここ数日間はなんとなく平穏が保たれていたのですが、つい1時間くらい前から、リビングのほうから口喧嘩をしているような声が聞こえてきたので、それを聞いていました。遅い時間だから控えめなのかそれとも不眠症気味の人間がいることへの配慮かは知りませんが全然意味無いですね。正直自分は慣れっこなので、口調で察しがつきます。内容を聞いていたら案の定でしたね。もっとなんかこう、時代に沿って進化してほしいものです。10年位前から同じようなことをずっと繰り返しているのでは?LINEとかでやればいいじゃないですか。

 

さて、予てから「なぜ喧嘩になるのだろう」と考えていたのですが、なんとなく結論に至ったので今日はそれについて書いていこうと思います。

 

一般論に拡張できなくもなさそうなので、以外とためになる内容かもしれないですね。

 

要件は、

  • 余裕を持って、相手の意見を聞き入れないこと
  • 問題解決から目的が逸脱し、自分の意見がその場において正しい或いは正しかったということを相手に示したいという気持ちがあること

の二つであると思います。少なくともこれに該当しない状態の場合、適用できないと予想されます。

 

自分の交友関係は狭いので、これらを持ち合わせていることがどれだけ一般的であるかの判別がつきません。したがって一般論として語る意思はないということを断っておきたいですね。

 

さて、余裕がない場合、人はおそらく正しい判断をすることができません。余裕とは心の余裕であり、自尊感情の余裕のことです。すると、最も良いと考えられる「これが良くなかったから、次からはこうしてほしい」という言い分を自分が間違っていると責められている気分になるのでしょう。

 

自分が間違っていることを認めるのはたやすいことではなく、まして関係が拗れている場合、大方自分を正当化したくなるものでしょう。この自分の正当化欲を満たすのは、自分の行動は良い、或いは正しい行いであったということを主張し、納得させることだと思われます。

 

私見を挟みますが、私は感情や感想を伝える時以外は、良し悪しを主張することは全くの無意味であると考えます。物事を良いと判断する基準は人によって異なるため、良かれと思ってやった行動が良い結果を結ばなかったということは往々にしてあるでしょう(なので行動に目を向けたいものですね)。そこで善意があれば反省し次の行動に活かせると思います。つまり、良かれと思って行動すること自体は素晴らしいことだと思っています。

 

上記を理由に、良かれと思ってやったことを理解してもらえないということが生じます。ここで、「良かれと思ってやった」という事実(かはわからないが悪意をもってやっていると決めつけるのは良くないので事実とする)がフォローされず、その行動が間違っていたと指摘されることで、正当化のための主張により却って否定されている感情を呼び起こされます。

 

たいていこのあたりでまともな話し合いなど破綻し、自分が間違っていないという主張の押し付け合いとなるので喧嘩になるのでしょう。それを鎮めるためにはエネルギーが尽きる、すなわち時間が経つことくらいしかないと思います。

 

以上がなぜ喧嘩になるかという理屈だと思います。

 

ただし僕は喧嘩が本当にキライなので、喧嘩とならないための方法も考えました。

 

一つは、喧嘩をして問題が解決するわけではない、ということを学習することです。しかしこれは前提として問題解決が目的であるという意識を両者が持っていることが求められます。もしくは、反省がしっかりできる人間であれば無意味なことに価値を見出さないためこれが有効とあると思います。

 

他に、常日頃から感情と行動を分離して考えるということも対策となるでしょう。否定されたのは行動であり感情ではないと認識できれば、自己否定には陥らないのでしょうか。

 

 

以上を踏まえ、僕はもうどうにもならないという結論に至りました。

 

同じことを少なくとも10年繰り返し、また喧嘩が嫌だったと他人から指摘されても尚改善されないということは、学習をしていない(あるいはしたくない理由がある)と考えられます。故に一つ目の対策は通じません。

 

二つ目も無理だと思います。この考えはアドラー心理学か何かだったように思えますが、他人の意見を聞き入れない時点で無理ですね。抑うつの人間がいようとお構いなしなので感情の制御も難しいのではないでしょうか。

 

また、自分が譲歩することをほとんど認めないということも要因でしょう。ただしこれは目的がすり替わっていることに因り、いつもそうではないとは思っています。

 

対策を僕が進言(これが上から目線の指摘となっては意味がないが自身がない)しようにもそれ自体を否定と感じ取られてきたので本人が気づかないとどうしようもないのかもしれません。しかしし本人たちはこれを苦痛と感じていないのか改善してないため、他者が介入せずに解消されることは不可能かと思われます。

 

 

別に僕に飛び火しなければそこまでの損害を負うことも無く、解決しなければならないとも思っていなかったのですが、一人暮らしにより手遅れになってしまう危険性をさけるために実家にいることが求められる立場で、精神的な負担を増やすということがなかなかまずい状況なのでこんなことを考えています。

 

一番手っ取り早い解決法は自分がこれを無視できるほどに自尊感情を取り戻すことでしょうが、果たしてうまくいくでしょうか。

 

正論っぽいことをつらつら書きましたが、特に感情が乱れている時は自分でも全く実践できていないと推測されます。自分を常に正当化することなく、日々反省をしていきたいという所存です。

 

終わり悪ければ全て悪し。連休の初日からくそったれな一日でした。

 

今日はこのへんで。